山女物語 <前編> 〜 やまめ生態七不思議 〜



 渓流の女王、谷の妖精、と称される「山女(やまめ)」・・・体の側面に長細い小判型のパーマークが8〜10個
ほど並んでいて、川の上流の綺麗な渓流にしか生息しない渓流魚です。日本の渓流魚界を見ますと最源流部
に澄む岩魚(イワナ)とその少し下流に生息する山女が在来種では2大勢力と言われています。イワナ、山女共
にその生息する環境や地域によって若干形態の違う「亜種」とも言える種族に分類されますがここでは省略します。
因みに九州島内ではイワナは生息せず、山女のみが細々と棲んでいる事になっています。(一般的な定説では)
 清流に泳ぐ美しい山女・・その体に纏っている綺麗な小判状のパーマークが際立っています。このパーマークは
一体何かと言うと、我々で言う所の「蒙古斑」です。幼児期にのみ見られる肉体的特長、「尻の青いガキが・」など
と呼ばれる例のアレです。


       
 ■熊本と大分の県境の沢にいる個体。放流魚の末裔。      ■これは正真正銘の天然ヤマメと断言できる固体。  
                                         宮崎県最深部の小谷源流域に生息している。
                                         マダラでも無い、とても丹精なヤマメらしい山女だ。
                                          

                                      
                                       
          
 
■宮崎県北部の谷。写真より赤みは強い。              ■熊本県東部の小谷。純粋種ではないだろう。
  このパーマークは良い感じだ。


  一般的に自然界の掟として、強者は全てに優先して条件の良い環境を陣取ります。小滝等、階段状で小さな
小世界に区切られている渓流と言う環境では、餌が沢山流れてくる「流れの集約する場所」(特等席)を強者が
陣取り、それより弱い物は2等席、3等席へと落ちて行きます。特等席に陣取った勝者は、他の物より条件の良い
環境で餌を独占出来ますので益々強く大きく成長するのです。自然界での生存競争では往々にして「固体の大きさ」
こそが優劣を左右する重要な要因になりますから、一度格付けされてしまった順位はそう簡単に覆り、下克上する
と言うわけには行かないようです。逆転満塁ホームランは自然界では滅多に起きない事例なのでしょう。渓流での
ヤマメ社会においては一般的に、30CMを超える固体を「尺山女」と呼び大型山女として別物扱いをします。


            
  メスの尺山女                             ■これはオスの尺ヤマメ


あらゆる条件を満たされた強い固体にのみ許される限界超えとでも言いましょうか、そこまで育つには強さに加えて、
賢さも必要としますので、警戒心の強い野生の尺山女は釣人の鉤にもそう簡単にはかかりません。

 優先条件で益々大きく強く育ったボス山女から蹴散らされた弱者はまた別の環境での競争に参戦し、熾烈な戦いを
挑むのです。新たな新天地で運良く勝ち名乗りを挙げた山女はその環境での特等席に座る事を許され、条件の良い
縄張りを確保します。この競争は日夜あらゆる場所・環境で繰り返され、大勢の固体が大きく勝ち組みと負け組みに
分類されます。時間の経過と共に色分けされた「弱者」と「強者」の関係はもはや巻き返しの出来ないような個体差を
生み、負け組みの山女達は条件の悪い環境で僅かに流れてくる餌を捕食し、命からがら生き延びるより他、術は無い
のです。自然界を司る法則は時として非情なまでに弱者に手を差し伸べる事をしません。来るべき厳しい季節の足音
はもうそこまで来ているのに、充分な餌も確保出来ず、肥りこじけた山女達はこのまま朽ちてゆくしか無いのか・・・
と思われたその頃、異変は起こりました。


<*再生*〜*甦る太古の記憶*>


 追いやられた劣悪な環境の中で、僅かな餌すら捉える事の出来ない状態が続いたある日、弱者ヤマメは夢ともうつつ
ともつかぬ状態の中、体の芯の奥底から沸々と湧き出てくるある感情に気づく事になります。それは遥か数万年前から
遺伝子の中に書き込まれていた封印されし太古の記憶が呼び覚まされたのです。物言わぬこの感覚は日に日に強烈
な衝動となり、ヤマメ達の体の外見にある変化をもたらします。目は鋭く、顎は大きく発達し、身体は細くシャープに研ぎ
澄まされ、そしてあのトレードマークであった「パーマーク」が体から消え去り、銀色一色に光輝く固体に変化するのです。

             
   ■熊本県と宮崎県境の河川。                   ■これも宮崎県の湖産銀毛。ダムのバックウォーターにて。


この現象を「銀毛(ギンケ)ヤマメ」と呼びます。体の中に蠢く本能に導かれ、川下に向って力強く泳ぎ出す山女達は、
体の中でもある変化が起こりました。川魚は浸透圧の関係上、そのまま海水へと放すと体液が体の外へ吸い出され
干物のようになってしまいます・・・ナメクジに塩をかけると溶けてしまう、あの原理と同じです。山女達は銀毛へと変貌を
遂げて行く過程において、自らの浸透圧を調整し海に出ても影響の無い体質へと改造を計りました。もはや外見も内面
も渓流に棲む「山女」とは違った生物に再生した銀毛山女達は一斉に海を目指し下降を続けました。海へと旅立った
銀毛山女達は、古巣の渓流のような急激な流れも無く、ただただひたすら広い大海原をどう感じたのか知る由もありま
せん。が、餌となる甲殻類や小魚が今までの環境とは桁違いに豊富なこの大海で一年を過ごし、貪欲に食べ、悠々と
外洋を回遊し故郷の川へと回帰するのです。彼らが故郷の母川である河口にさしかかった時、辺りは桜の花びらが
はらはらと舞い散る季節とになっていました。

 一方その頃渓流では、生存競争に勝ち残った野武士のような「老獪山女」が時に「一尺(30cm」を超えるような
立派な体型へと成長し、唯一の天敵であった鳥達の恐怖からも完全に免れ その環境の食物連鎖の頂点に君臨
しているかの如き風格で、睨みをきかせています。季節は春から夏へと移り、そろそろ繁殖の時期への準備に入ろう
としていました。「川下が騒がしいな・・」経験豊富な野生ヤマメ達の敏感な本能は何かを感じ取っていたのかもしれ
ません。長い長い旅を経て、大海原での回遊で外の世界を知った銀毛ヤマメは一群をなし、滝を越え、急流を遡り、
浅瀬を突破し故郷の渓を目指し遡上を続けます。その様子は・・「凱旋」・・!数々の困難を克服して古巣の渓を遡上
するヤマメ達のその姿は悠に50CMを超え中には1mに達そうとする程までに立派な体格をなし、大きく発達した
上下顎は内側へと湾曲し、大人の手の平より大きな尾鰭は力強く水流をかきます。全身白銀のような輝きを纏った
威風堂々たる彼らの姿にはもう昔の面影は残っていません。尊厳に満ちたその風格は 将に「尊い魚」・・・「鱒(マス)」
へと変貌を遂げていたのです。もはや故郷の川には彼らの凱旋を阻む物は何もありません。 その場に居合わせた者
すべて彼らの行進を見届けるのです。川に残ったヤマメも海から遡上してきた桜鱒も、目前に迫った繁殖期に合わせ
全身を紅色の婚姻色に染め上げると、それが渓流全体に朱色の絵の具を溶かしたかの如き紅い情熱に染まりました。

 折りしも渓谷に清冽な流れを齎せてくれる、ブナをはじめとする原生林も森は、陽射しに照り映える緑葉の役目を
終わらせ、朱色に染まる渓の水面に刺激されたのか、山頂から錦色に移り行くのでした。